他府県の里程標石 1
他府県の里程標石 1 京都府の場合 09・09・25 創設
このシリーズでは、他府県の明治の里程標石や、すこし拡張して、明治の元標/国境石について記載します。
9・24~25に別件で、舞鶴に行きました。 その余裕時間に、標題に関する丹波/丹後の事情の一端を見て来ました。
最初の標的は、恐らく江戸期のもので、今考えている枠からは僅かに外れるようですが、確かめておきたいものがありました。
丹後田辺(舞鶴)藩の『里程石』で、河守海道にある 「田辺大橋ヨリ壱里」 です。 また、現地での文献調査で同類の、
京海(街)道の、 「田辺大橋ヨリ壱里」 「田辺大橋ヨリ弐里」 が 『かつてはあった』 ことが判りいました。
<WEBの一部の情報では、同種の石柱が三基現存するそうで、京海道の二基を含めるかどうかは判りません>
河守海道へは、地図が不充分で途中で諦めたので、到達できず。 京街道の方を探訪しました。 これら標石の特徴はふたつ言えます。
第一は、本来的に一里塚があって、その傍らに石柱が立っていることです。 第二に、その石柱に里程数が刻まれていることです。
塚や石柱の建立年代は今のところ筆者には理解できていませんが、石柱の写真を見る限りでは、明治の一連の建立とは違う印象を
持っています。
なお、江戸期の一里塚があって、起点や里程が表記されているのは例が少ないように思われます。
京街道のものは、いかにも、塚も石碑もなく、「塚跡」 を示す標識にも遭遇できませんでした。 結局、実物には一基も遭遇できませんでした。
現地と連絡を取って、詳細調査中です。
これで終われば、「悲しき・自由研究レポート」 で済んでしまいます。 河守海道を深追いしないで、京街道に重点を置いた理由は、
第二の標的にあります。 「従是北丹後國加佐郡」(舞鶴市側)/「従是南丹波國何鹿郡」(綾部市側)を調べたかったからです。 告白するなら、
その存在は舞鶴へ行ってから、文献で、見つけました。 しかも、現地で建立年銘「明治二十七年六月建之」を知ることになりました。
泥縄調査旅行の真骨頂(?)ですが、こちらの標石は明治新政府の年号ですから、大きな収穫です。
<書き込み> 剣尾山-横尾山ハイキングコースには、「國境石(標面文字不識)」 と 「國界石」 (丹波-摂津境)が、各1基、近い位置に
あるようです。 前者の写真では明治十年三月の銘が認められます。
別の記事では、後者に明治十年二月の刻字があり、大阪府|京都府の字もあると書いています。 明治九年太政官布告122号に準拠。
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帰宅してWEBを見ると、京都府では、これと類似の郡境石/村境石/国境石(亀岡街道の摂津国|丹波国境)が多いことが判明しました。
筆者には、それぞれの設立年が判っていませんが、上記国境石には明治九年の年季がある由です。明治九年とは、又又、今追求している
「里程標石」 なり、明治の道路行政なりで、特徴的な年号です。
全般的で、詳しい全体像を得るには今後の調査が必要です。
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この例は、備前備中境の謎の標石の例に解決を与えてくれます。 「鴨方往来」 の両國境界に建てられた標柱が移設保存されています。
標面文字には 「従是西備中國甲南邨」 とあり、年号もなく、残る三面は余白です。 ところが、『甲南邨』 とは明治八年から6年間だけ存在した
村でした。 この邨は、この短い期間、明治新政府の萌芽期の、「村域確定/里程調査/村誌作成」 の機運の中に遭遇したのでしょう。
筆者の現在の仮説として、江戸期に既にこの位置に建てられていた 「従是西備中國(平野村)」 の石柱を抜去して、新しい柱を打ち立てたと
理解しておきます。 岡山県下では、現段階では、明治になってから旧国名を明示的に残した標石は管轄境標石には例があるが、
同一岡山・県内の旧国境を刻したのは初確認かも知れません
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なお、明治十五年七月の丹後國加佐郡野村寺村の『村誌』では、近隣との里程が記され、「~東北方舞鶴港ヨリ壱里弐町 本村元標ヨリ
他村ノ元標」と記載されています。 他の村の『村誌』でも同様に、「舞鶴港ヨリ」と記載され、2つのことが判ります;-
1)舞鶴港が重要視されていること 2)「田辺大橋ヨリ」の記述は見つからないこと
== 以下 画像
従是北丹後國加佐郡
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従是南丹波国何鹿いかるが郡 明治二十七年六月 建之
- 最終更新:2009-09-29 14:30:44
